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2010.05.19

新冷血と冷血と

高村薫さんの連載「新冷血」、イノウエとトダはなんだかんだで息ぴったりに思えてきた・・・。ちぐはぐだし交わす言葉も少ないしだけど”無目的な目的”に向かって何かひたすら追われるように執着。うまく表現できないのですが。
とりあえず、高村さんは食事シーンをこれでもかと描くことで犯罪者2人の個性のひとつを表現しようとしているのかなと、思います。食の好みが違うと、人は根本的に相容れない、なんて俗説を聞いたことがあるように思うのですが、食事シーンがみっちり描かれていることがこれから先なんらかの行き違いが生じてきたとき、読者の頭に自然とリンクしてくる、元もとのかみ合わせの悪さ。

本家カポーティの「冷血」を読み終えました。これは学生時代に読んで手元に持っていたので、新連載のタイトルが新冷血と判ったときからちまちま読み進めてきました。
改めて、1959年に起こった事件を題材にした小説が非常な新鮮さで読めることに驚きます。理由なき殺人、またその残虐性という事実は当時、いくら銃社会のアメリカといえど相当な衝撃だったと思うのですが、それを現代の日本人が読んで肌に感じることができるというのは、ある意味恐ろしいことだと思います。年月が経っても古びない作品を書き上げたカポーティの力も当然ものすごいのですが、人間の心の底の闇という計り知れないものは時代も文化も超越するのか、と。
また、ふと気づいたのですが、この本家本元の事件が起こった頃にちょうど合田、加納たちは生まれているんですよね。合田は、現代のネット犯罪という新しい犯罪分野に挑む一方で、不変の人間の浅はかさに対峙するわけですね。一回りほど若い世代と”言葉”を交わせない”現代社会の病”と、自分が生まれた頃にすでに同様の事件は起こっていたことで痛感する”人間そのものの病”と。

本家「冷血」の流れからすると合田の登場はまだ当分先です。が、もちろん高村さんがどう現代の犯罪を料理するかはわかりまん。連載開始に少し遅れてですが「冷血」を読み終えたことで、ますます「新冷血」からめを離せなくなりました。

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