カウンセリングのはじめ、小ネタたというか、小話というか、噺家さんの「つかみ」みたいな笑い話をしておいて。
さて、と。
私、もう生きるのやめることにしたんです。
疲れたんです。
鍛えた人が30kgのザックを背負って登山するのと、鍛えてない人が週末に思いついて30kgのザックを背負って登山するのとでは、同じ30kgでも疲れ方が違うでしょう?と。私は、ほかの人にとっては30kgの荷物かもしれないけれど、私にとっては100kgにも200kgにも相当する荷物になっていて、もう疲れ果てて、降ろしたいんです、休みたいんです、と。
カウンセラーさんは「思いとどまって!」なんて安っぽい言葉をかけるのでなく、ただだまって、私の喋るがままにしていました。
実はつい先日、かつての同じ職場の人が、亡くなりました。飛び降り自殺でした。
私は、彼に、同じ匂いを嗅ぎ取っていました。
ヤバイ、パンク寸前だ、下手したら死ぬ!
って、感じ取っていました。
でも、彼は死んでしまいました。私には思いとどまらせることはできませんでした。
すごく悔しいです。無念です。彼を死なせずにすんだかもしれない。
同じうつ病に取り付かれた者として、救えたかもしれない命。
同僚は泣いていました。
自殺して残されるものの辛さ、悲しさ、無念。
それを目の当たりにし、自身も痛感し。
こわいのは、それでもまだ、私のココロのメーターは「生」よりも「死」に大きく振っているということ。
残されるものたちはこんなにツライ思いをするんだから、自分はよそう。
そう思えないんです。私自身、彼を救えなかったことが悔しくてならないくせに、自分が死ぬ決意は揺るがないのです。
詳しく書くと長くなるし、とめどなくなるので省きますが。
私の「死」へほぼ振り切れていたメーターは、彼の死によって、若干「生」の方へ傾きました。
でもまだまだ「死」の方へ振れています。
今日がカウンセリングの日でよかった。ありのままの自分をさらけだし、死にたい衝動も包み隠さず話せるから。知人の自殺という衝撃的な事実と、自分の希死念慮をのつながりも思うまま話せるから。
もし今日がカウンセリングでなければ、私は思いの吐き出し口を見つけられないまま、衝動的に死へ走っていたかもしれません。
私にはまだ生への執着があるようです。
カウンセラーさんは言いました。
「じょんさんが来るまで、僕は待ちます。ここで待つことしかできないから、予約の日はひたすら待ちます。
次の予約をしたら、また待ちます、僕はここで待ちます」
と。
カウンセラーさんは言いました。「じょんさんはいつもニコニコしてお話するけれど、それはあくまで表面的なことで、内面は決して笑顔ではない」
と。
さすがにプロだな、と関心しました。
自分が生きることをやめたいと思っていたとき。
かつての同僚が自殺という手段をとったとき。
どう感じたか、どう行動したか。
それを正直に吐き出せる場であるカウンセリングが今日であってよかったと思う。
もし来週とかだったら、吐き出すことができずにパンクして、衝動的に自殺に走ってたかもしれない。
カウンセラーさん、ありがとう。
ここを読んで励ましてくれる友達、そっと見守ってくれる友達。
みんなありがとう。
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